3月11日の地震から13日の今日まで

はじめに、私と家族は無事であることを先にお伝えします。
昨夜は22時には眠り、じゅうぶんな休息がとれました。

これまでの状況をまとめます。

■オフィスで揺れに遭う

2月11日、いつも通り出勤。
14時~15時ころ、揺れが始まりました。
始めは気にせず仕事をしていましたが、揺れが大きくなったので、机の下に潜り込みました。
揺れが激しくなり、それがしばらく続き「ビルが崩壊し死ぬかも知れない」とも思いました。
大きな揺れが収まりましたが、その後も揺れは続きました。
特別な指示はなく、通常の業務に戻る人もいれば、先に外に逃げ出す人もいました。
自分は、公式な連絡が入るまで業務をすることにしました。
震源が東北の方であることとの情報を確認しました。

■揺れが収まらず、避難開始余震が収まらず、会社の隣の公園への避難の指示がビルの防災センターから出ました。
階段を使って14階から下りました。
公園からはお台場の方に煙があがるのが見え、自体が深刻だと分かりました。
心配なのは妻と母ですが、連絡がまったくつきません。
大きな揺れはなく、20~30分ほどで会社に戻る指示が出ました。
エレベーターが動かず階段で14階まで上がり、通常業務に戻りました。
時間は16時ころだったと思います。
これでここでの地震被害は終わるものと思いました。
依然母・妻連絡がつかないことが一番気がかりでした。
実家へは会社の固定電話からも繋がりませんでした。

■揺れは収まるが、通信や交通が復旧せず

余震は再び起き、会社から「帰宅してよい」という連絡があり、帰宅する人がいました。
しかし、電車がストップしているという情報もあり、会社で待機する人がほとんどでした。
自分は進めたい仕事もあったので、残業は控えて土曜か日曜日に仕切りなおして出勤しようと考えました。
続く余震で、地震が発生していない間も揺れているような感覚で、気分が悪くなりました。
その間、ラジオ(東京FM)を聴いていました。
柴田アナや古賀アナの冷静なアナウンスは安心感を与えてくれました。

■電話回線の回復

メールが届いていませんでしたが「新着受信」をすると溜まっていたメールが一気に入ってきました。
全然連絡を取っていない人からも心配や安否確認のメールが届きました。
こうした時に「自分以外の心配が出来る人」を尊く思いました。
電車が終日運転しないとの情報を確認しましたが、自分が帰れないことはもはや大きな問題ではなく思いました。
18時頃には妻の安否が妻の母からメールを受信し確認できました。
19時ころには母から「大丈夫」の旨のメールが入りました。
次に心配になったのは、家に取り残された犬です、妻と妻の家族もそれを心配していました。
何度か発信すると電話が繋がる状態になり、最寄駅が同じである妻と合流することにしました。
スマートフォンは電池の消費が早く、既に電池が半分以下になっていました。

■オフィスの外の状況

一人で会社の外に出ました。
オフィスの近くのコンビニでは食材がほとんど品切れのようでした。
飲食店は開いているようでしたので、お店で食事をすることにしました。
駅は閉まっていて、駅地下の飲食店街に入ると、道端で寝てる人もいました。異様な光景でした。
途中、妻から「家族が車で迎えにくる」という情報が入りました。
最初入った店でもう食べ物がないと言われ入店できず、他のお店を探し食事にありつきました。

少しほっとしました。
食べながら会社に残った人や妻の職場の食糧を心配しましたが自分がどうにも出来ないと思いました。

■妻との合流

妻とは駅前で待ち合わせをしてお店に呼んで2人で食事をしました。
そのときも余震は続き、地震酔いのような感覚も続きました。
まだ21時前後でしたが、もっと遅い時間なのでないかと感じました。
23時前に店が閉店になる頃、車が近くまで来ているとの連絡があったので、外に出ました。

■帰路の途へ

外はとても寒かったです。
途中でスマートフォンの電池が尽きました。
大門の交差点付近で増上寺が開放されていると声が聞こえました。
増上寺に行くと温かい場所とお茶が提供されていて、とてもありがたく思いました。
トイレを借り、10数分で、車がそばまで到着しているとの連絡が入りました。
迎えの車に合流できたのは23時過ぎでした。

■帰宅の途中も余震止まず

車は、混んでてなかなか進みませんでした。
殺気立って荒っぽい運転をする人もいました。
3時や4時頃に、車内のテレビで長野や新潟で大きな地震があった情報が入り、まだまだ状況が厳しいと感じました。
5時前にようやく、帰宅。
ドアを開けると犬が飛んできました。
犬が怯えていましたので、よほど怖かったのだろうと思います。
部屋は散らかっていました。
スマートフォンを充電し、兄や友人からメールを確認しました。
仙台に住む兄は奥さんの実家である宇都宮に避難してきたそうです。
温かいコーヒーを飲んで妻の家族は横浜市内の自宅に帰りました。
まだときどき余震を感じました。
ガスが出ずお風呂に入れませんでしたが眠かったので睡眠をとりました。
6時頃だったと思います。

■2日目にようやく落ち着く

あまり眠れず、10時に目が覚めました。
ガスが出たので、お風呂に入りました。
これで多少落ち着き、いつもの土曜日に戻ったのかなと思いました。
クリーニング屋にいく途中、地震の影響でヒビ割れした建物を見かけ、横浜もかなりの揺れだったのだと思いました。

飲食店など、ほとんどのお店は開いていましたが、コンビニでは食料品の多くが品切れとなっておりました。
母は地震直後以降の2度目の連絡がなく、少々心配ですが、一人ではないはずなので大丈夫だろうと思いました。
妻と犬を連れてでスーパーに行き水や食料、懐中電気の電池を購入しました。
昼過ぎに仮眠をとり、15時過ぎに目が覚めました。
落ち着いたので、一人で駅前に買い物に行きました。
ダイエーはヒビ割れが入っているせいか、営業していませんでした。
途中、また揺れを感じました。

■2日目の夜は不安と安堵

節電の呼びかけがあったため、帰宅後もエアコンをつけず毛布にくるまっていました。
夜はお弁当を食べました。
また余震があり、また不安な夜になるのかと思いました。
私は妻と2人でしたが、1人の方はよほど不安ではないかと思いました。
犬も昨日からずっと私たちのそばを離れようとしませんでした。

福島原発の情報で、21時台に枝野官房長官から中の容器は破損していないとの情報があり、少し安心しました。
いざという時の準備をして、22時前に眠りました。

■3日目はいつもの日曜日

8時ころ目が覚めました。
母から無事である旨の連絡があったと兄からメールが入りました。
東京近辺では鉄道もほぼ通常運転に戻り、普段の日曜日に戻ったようです。

本日もエアコンは使用しないなど節電をしながら過ごそうと思います。
皆様も身の周りの準備がまだという方は念のため準備をしてください。
停電のときにため、食糧だけでなく懐中電灯やラジオがあると安心です。

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